11:00<br><br> ベランダに出ると、春の匂いのする空気が炭治郎を包んだ。なまあたたかい風が土と芽吹いたばかりの植物の匂いを運んでくる。穏やかでやわらかく、どこかそわそわと浮き立つ心地にさせる匂い。見上げると中天に向かうにつれて紫がかる青い空に、薄い雲が高くたなびいている。春らしい、いい天気だ。<br> いつの間にこんなに春めいていたのだろう。忙しさにかまけて、季節を感じる余裕もなかったようだ。<br>「あ、」<br> 隣のカナヲが不意に声を漏らして空を掴んだ。どうしたのかと覗き込むと、白い手のひらの真ん中に淡い色の花弁が一片のっていた。桜だ。動体視力に優れたカナヲにとっては、こんな小さな花びらも捕まえることなんて造作もないことらしい。<br>「どこから飛んできたんだろう」<br> 近くに桜の木なんてあったかな、そう首をかしげるカナヲの口元は綻んでいる。桜は一般的にもよく好まれる花だけれど、それを差し引いてもカナヲは花が好きだ。部屋にも季節の花をよく飾っているし、花の名前にも詳しい。妹たちも同様だから、女の子とは皆そういうものかと炭治郎は思っていたけれど、一概にそうとも言えないようだとは友人たちの話を聞いて最近知ったことだ。<br>「やっぱり、今日出かけないか?桜、見に行こう!」<br>「え?」<br> 衝動的にそんな言葉が口をついて出た。桜の花の下で笑うカナヲの顔が見たくなったのだ。花弁一枚でこんなふうに柔らかく笑む彼女は、満開の桜の下ではどんなにか可愛いだろう。<br> カナヲは目を瞠って見上げてくる。菫色の瞳は、喜びと労りの間で揺れていた。<br>「せっかくこんなにいい天気なんだ。もったいないと思わない?きっときれいだよ」<br>「でも、」<br> カナヲが柳眉を曇らせる。彼女が炭治郎を気遣って家でゆっくり過ごそうと言ってくれたことはわかっていた。カナヲは少し不器用なところがあるけれど、優しい女の子なのだ。<br>「心配してくれてありがとう。でも、たくさん充電できたから俺は大丈夫だ」<br>「充電って……」<br> マシュマロのようにやわい頰に触れると、言葉に潜めた意味を正しく理解した様子のカナヲがわずかに目を伏せた。みるみる頰が色付いていく様子が果実のようで、口で触れたくなる。カナヲは、どういう顔をすればいいのかわからない、といった様子で、小さく唇を開閉させた。<br> ――そんな顔をされると、ベッドに引き込みたくなってしまう。<br> 不埒な欲がちらりと過ぎる。出かけると言った舌の根も乾かぬうちに何を考えているのか――春の陽気に当てられたのか、浮かれがちな自分の心をどうにか制して、炭治郎はカナヲと目を合わせるように顔を覗いた。花弁をのせた手のひらを包むように握る。<br>「カナヲと桜が見たいな」<br>「うん……私も、炭治郎と桜見たい」<br>「よし、じゃあ早く干してしまおう」<br> ダメ押しの一言にようやく笑って頷いたカナヲに微笑むと、炭治郎は手早く残りの洗濯物を片付けた。
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